2007年度 社団法人呉青年会議所 ウェブサイト Junior Chamber International Kure Website 2007 
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からすこじまから警固屋氏の堀城跡を歩き、呉衆について考える
「アレイからすこじま」から見える潜水艦
 
海軍時代のクレーン
 
レンガづくりの倉庫群
 
警固屋堀城があった辺りから海を望む
警固屋堀城があった辺りから海を望む
警固屋堀城があったとされる尾根
「アレイからすこじま」から見える潜水艦
 子規句碑前から造船所や海上自衛隊補給倉庫を眺めつつあるきつづけると、現役の潜水艦を観ることができる「アレイからすこじま」という公園にたどりつく。このあたりは明治期の海軍工廠拡張時に埋めたてられた土地であるが、それ以前より烏小島(からすこじま)という名の離れ小島が存在した。そもそも烏小島と名づけられた由来は、その昔、厳島の弥山に棲む神烏が紀州熊野へわたる際、この島まで追いすがってきた子烏と鳴いて別れを惜しんだという言い伝えにある。

 公園の南端には旧海軍が魚雷などを潜水艦に積み込む際に使用したクレーンがほぼ原型を留めて展示されており、周辺には旧海軍造兵廠時代に建てられたレンガづくりの倉庫が建ちならんでいる。このあたり一帯に漂う雰囲気から、古きよき明治、大正時代を感じることができる。
 
 さらに南にあるくと警固屋という場所にたどりつくが、警固屋五丁目にある警固屋支所の上方尾根部にはかつて警固屋堀城という警固屋氏の居城が存在した。警固屋氏は山本氏、檜垣氏と共に呉衆とよばれた小領主連合を形成し、室町時代を通じて、西国一の守護大名であり、周防、長門(現在の山口県)を中心に広大な領域を支配下に置いていた大内氏に臣従し、数々の合戦に従軍している。

 大永3年(1523年)に尼子経久が大内氏の分国であった東西条の拠点、鏡山城を攻略した際、毛利氏をはじめ、安芸の国人領主たちが次々と尼子方へ寝返ったが、このときでさえも呉衆は大内方に留まっている。大内家と呉衆の間に、私たちの想像を超える強固な主従関係があったことがわかる。

 天文9年(1540年)、出雲の守護、尼子経久から家督を継いだ尼子詮久は、対立する毛利元就の居城、郡山城を取り囲んだ。このとき、元就は百万一心を掲げ、領内の民を全て城内に引き入れて籠城し大内軍の救援を待った。この毛利救援軍の一翼を担った小早川興景軍の一員として警固屋小次郎という人物が参戦したという記録がある。また、大内氏滅亡後の永禄13年(1570年)に警固屋市介という人物が、毛利氏の尼子攻略において、牛尾要害攻めを実施した阿曾沼軍の一員として従軍したとの記録も残っている。

 これらの記録に接すると、毛利と陶の対立が顕著になった天文23年(1554年)において陶晴賢に味方し、小早川隆景に呉地域を接収されて滅亡したとされる呉衆ではあるが、その後も、警固屋を名乗る人物が毛利軍の一員として活躍していたことがわかる。かつて居城があったとされるあたりから音戸海峡を眺めると、戦国時代に大内氏や尼子氏、毛利氏といった有力大名たちの勢力争いに左右されながらも何とか手柄を立ててその名を後世に残してきた警固屋氏の活躍に想いを馳せることができるのである。
企画・編集/2007年度 呉の力発信委員会

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