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JCで一皮むけた経験book

一皮剥けた経験

どんなことでも絶対に手を抜いてはいけない

下中利孝 先輩

JCには、1986年に入会した

当時、30歳だった。その年のある日、事務局へ行くと、広島ブロック協議会の会長をされていた堀口勝哉さんがいた。そこで、ブロック会長としての挨拶の原稿を、時間をかけて推敲されていた。その真剣な様に、当時、仮入会員だった自分は驚いた。堀口さんは、決して流暢に話すタイプではなく、どちらかと言うとスピーチは、苦手な方ではなかったかと思う。そんな堀口さんは、一回の挨拶をするのに、これほどまでに入念な準備をされていた。もちろんご本人のキャラクターによる部分もあると思うが、準備をしっかりされている分、スピーチのうけはいつもよかった。あの姿を見たとき、どんなことでも絶対に手を抜いてはいけないと思った。「チャンスは皆に等しくある。しかし、一所懸命やらないと何も得られない」。そう実感した。
入会した翌年から、日本JCに出向させてもらい、翌88年には、日本JCで総括幹事をさせてもらった。委員長は、奥原武範さんだった。右も左も分からず、最後の最後まで手探り状態だった。続く89年も日本JCに出向させてもらい、槙岡達真さんが委員長をされたJC総合研究所運営特別委員会に配属された。北は北海道から、南は沖縄まで、槙岡さんと一緒に全国各地を行脚した。元々、JCに対しては、会社にないものを求める志向が強かった。その点、日本JCには、異質で特異な才能を持った人が多く、出向は大いに刺激になった。今でも、当時の仲間との付き合いは深い。
91年には、副理事長(まちづくり財団推進特別委員会委員長)をさせてもらった。父を早くに亡くしたので、これが自分のJC生活の最後の役となった。当時35歳だった。以降は、会社の仲間と共に生きる道を選んだ。卒業してからも、ロータリーやライオンズへの入会のお誘いをいただいたが、全てお断りした。「会社を活性化させることで地域に貢献したい。それすらもおぼつかないようでは、まちづくりどころの話ではない」と思ったからだ。実際、父が亡くなってから、しばらくの間、大変だった。下手をしたら潰れていたかもしれなかった。
今、振り返ってみると、自分はどこかJCを批判的に見ていたようなところがあった。と言うのも、あの当時、出欠の返事をちゃんと出さないメンバーが少なくなかったからだ。そんなこともできないような人が、高邁なことを論じる資格はないと思っていた。企業人として、社会人として、当たり前のことだろう。会社でも、挨拶がきちんとできず、整理整頓や清掃も不十分なところに、立派な会社はないと思う。JCのことが好きだっただけに、そういったルーズな面が見受けられると許せなかった。
もちろん、批判的に見ていたとは言っても、受けた役に関しては、責任を持って演じきったつもりだ。在籍中に受けた刺激や、得た出会いは数知れない。仕事に関しては、顧客は広島市内や広島県外ばかりで、必ずしも呉という地域には根ざしていない。それだけに、JC活動を通して、呉での人的ネットワークができたことには、とても感謝している。30代という青年期にあのような活動をしたところに、何か特別な意義があったように思う。
次のインタビューは、槙岡さんが理事長をされた年に委員長をされた山下雄朗さんに繋ごう。

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