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JCで一皮むけた経験book

一皮剥けた経験

与えられた役割を責任持って果たす

佐々木長男 先輩

1967年、国際関係委員会の委員長をさせてもらった。33歳になる年だった。ある会への出欠の件で、理事長の中塩信さんに「忙しくて、出られない」と言ったことがあった。すると、「佐々木君、忙しいというのは、もっともらしい理由のように聞こえるが、これほど理由にならないものはない。忙しいのは、皆、同じだ」と言われて、ニッコリされた。それ以来、自分は「忙しい」という言い訳を一切しないよう努力した。
その年、高雄JCの10周年記念式典があり、呉JCは理事長の中塩さんを団長にし、高雄を約一週間、訪問した。そのときの一団に、大之木英雄先輩も随行された。出発早々、大之木先輩から「佐々木君、君は国際関係委員会の委員長だ。今回の高雄訪問の実行責任者は君だ。ついては、一行の荷物の管理をはじめ、何から何まで全て君がやるんだ」と言われた。自分としては、台湾には遊びに行くくらいのつもりだったのに、とんだ思惑違いになった。
まず、誰が何個の鞄を持っているか、全てチェックした。朝には、各部屋から持ち出された鞄の数を確認し、移動車に積み込んだ。夜のミーティングでメンバーから意見が出ると、それらを踏まえてスケジュール化するのも自分の仕事だった。ちょっとでも気を抜くと、大之木先輩から「佐々木君、これからのスケジュールはどうなっているんだ」と弾が飛んでくる。「君は委員長なんだから、君がやらないといけないんだ」と何度も繰り返し言われた。
高雄では、呉音頭を披露することになっており、曲は、持参したレコードをかけることになっていた。そこへ、大之木先輩が「佐々木君、レコードがちゃんとかかるかどうか確かめたのかね。規格の違いで、かからないことだってあるぞ」と言われた。そんなことまで考えておらず、慌てて高雄JCのメンバーにレコードを渡して、テストしてもらった。幸いにも音楽はちゃんとかかった。大之木先輩に「大丈夫でした。ちゃんとかかりました」と報告すると、「よし」と頷かれた。
こんなこともあった。理事長の中塩さんが壇上で挨拶をされているときのことだ。当初の予定では、挨拶が終わった後、そのまま壇上で高雄JCの理事長に記念品を贈呈することになっていた。ところが、その予定を高雄JCのメンバーが突然変更し、記念品の贈呈は、別の時間帯に行われることになった。
困り果てていたところ、大之木先輩から「そのことを早く理事長に伝えろ」と言われた。そのとき、自分は壇上の理事長に伝える方法が思い浮かばず、「今、理事長は壇上でスピーチをされています。どうすることもできません」と答えた。それでも大之木先輩は、「いいから早く伝えろ」と言われた。「参ったなあ」と頭を抱えていると、理事長の写真をとっていたカメラマンの姿が目にとまった。瞬間、閃いた。「よし、あれで行こう」。すぐさま、大きなカメラを持って、カメラマンのふりをし、ステージ中央に近づいた。これ以上近づけないというところまで接近して、カメラのシャッターを押しながら、理事長にこう言った。「記念品の贈呈はここではありません。スピーチが終わったら、そのまま降壇してください」。その言葉を繰り返した。しかし、理事長は、チラリとも自分の方を見なかった。
もとの席に戻ってから、「ちゃんと伝わっただろうか」と心配になり、居ても立ってもいられなかった。まもなくして、挨拶が終わり、息を呑んで見守った。すると、理事長は、そのまま降壇された。「良かった。ちゃんと通じていた」と安堵した。「私の方を見ていただけないので、ちゃんと伝わったかどうか、心配しましたよ」と理事長に言うと、「しゃべっている最中に君の顔なんか見られるわけないだろう。声はちゃんと聞こえていたよ」と言われた。窮すれば通ずとは、まさにこのことだと思った。
高雄に滞在している間、大之木先輩から次のように言われたことがあった。「入会した以上は、所属しているメンバー一人一人が、自分に与えられた役割を責任持って果たさないといけない。そうやって、会を大切にしていくんだ」。おそらく、大之木先輩は、それを具体的な行動レベルで指導してくださったのだろう。後に、大之木精二さんから、「佐々木に対する叔父貴(大之木英雄先輩)の評価はよかった」と聞き、安堵した。
大之木英雄先輩には、先輩OBとして、現役会員の前で講演をしていただいたこともあった。そのとき、二時間に及ぶ立派な内容の話を原稿なしでされ、「凄いなあ」と思った。そのことを大之木精二さんに言うと、「叔父貴は、まず原稿を書く。そして、それを読み上げて、テープレコーダーに録音するんだ。その後、テープを何度も聞いて、本番に臨んでいる」と言われた。言葉を失った。本当に凄い方だと思った。
自分がJCに在籍していた頃、二人の逸材がいた。永野猛雄君と清水浩洋君だ。この二人は当時の呉JCの頭脳的存在で、まさに突出していた感があった。20周年の記念誌は、この二人が作ったも同然だった。今見ても本当によくできた記念誌だと思う。この二人が議論をしながら、記念誌の構成を考えている傍ら、自分たちは「まだ終わらないのか」と隣のテーブルでビールを飲みながら、すき焼きを食べていた。「まだだ。もうちょっと待て」と答えながら、二人の議論はずっと続いた。それを結構、楽しんでいるようにも見えた。あの二人が話すと、最後はいつも論理的にまとまった。
いつだったか、理事長の新田耕司さんに「我々は、もっと頭脳集団にならないといけない。汗をかいているだけで何かをやったような気になっていてはダメだ」と言ったことがある。すると、「佐々木君、それは言い過ぎじゃないか」と怒られた。しかし、実際そうだと思っていた。JCには、KJ法だの、ロバート議事法だの、分かったような言い方をするメンバーが多かったが、本当にちゃんと分かっているメンバーは、ほとんどいなかった。自分も含め、半分かりの者同士が、分かったつもりで議論をするのだから、まるでトンチンカンなことになっていた。永野君や清水君のようにできる人間が羨ましかった。あのような人材が、JCにはもっと必要だと思った。
今、振り返ってみても、自分はいつも財布の底を気にしながら、JC活動をしていた。飲みに行っても、奢ってもらうことが多く、それが続いては悪いと思い、飲み会に誘われる前に、そそくさと帰宅する日が続いたこともあった。すると、「お前は付き合いが悪い」と言われるようになってしまった。自分としては、付き合いたいのは山々だが、奢ってもらってばかりでは、気が引ける。だから、致し方なく帰っていたのである。しかし、その後、あることに気が付いた。お酒を奢る人間は、奢ってもらう側が想像する程、悪い気分ではないらしい。都合のいい解釈かもしれないが、やはり遠慮はすまい。
 JC生活では、多くのことを学び、良き友と出会えた。それはまさに、楽しく、面白く、愉快なものであった。結論は、「男の幸せとは、良き友を持ち、少し小遣いに不自由すること」。72歳になった現在も変わることはないようだ。

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