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JCで一皮むけた経験book

一皮剥けた経験

「出会いと縁(えにし)」が全て

堀口勝哉 先輩

JCには1972年、25歳のときに入会した。仮入会員のとき、出席義務行事にほとんど出なかった。正直、興味が持てなかったのだ。そのため、11人の同期のうち、自分一人が理事会で入会承認されなかった。ところが、最年長の海生俊史さんを筆頭に同期の仲間が、「堀口君を入会させないのなら、我々全員、入会しない」と言い出した。とは言うものの、理事会が仮入会員の反乱に屈するわけにはいかず、窮余の策として、「三ヵ月だけチャンスを与えよう」ということになった。その間に、変化が見られなければ、もう入会は認めないということである。
その後の3ヵ月は、さすがに態度を改めないと同期の仲間に悪いと思い、新たに課せられた出席義務行事には一応出た。そして、皆より3ヵ月遅れて、正式に入会。入会式は、例会が終了し、皆が帰った後、担当副理事長の永野猛雄さんと自分の二人だけで行われ、そこで永野さんが、これまでの自分の行いや、これからの自分への期待を語ってくださった。永野さんは立派な方で、ジーンとくるような内容の話をされた。そこで何とか自分はJCに踏みとどまることができた。
入会してから9年間、自分はほぼ一貫して会員交流畑で、宴会・親睦会が専らであった。理事をさせてもらったのも、入会七年目と同期の中で最も遅かった。79年には室幹事を、81年には副理事長をさせてもらったが、いずれも担当は会員交流だった。
81年、この異常なまでに偏っていたキャリアを、大之木伸一郎さん(当時直前理事長)や永田徳博さん(当時日本JC委員長)が気にかけてくださり、「堀口君にJCの別の世界を見せてやろう」ということになった。それが82年の日本JCへの出向だった。そこで社会開発委員会の副委員長。委員長は、山形の寒河江JCの大沼さんという方で、徳川幕府から酒造りの許可を得たという歴史ある酒造メーカーの経営者だった。
委員会は四つの小委員会から構成されており、その内、新しいプログラムを開発する小委員会や、既存のプログラムの浸透を図る小委員会などは、その道に長けた人が担当することになった。委員長の大沼さんは、社会開発のことがまるで何も分かっていない自分を、「現地調査」の担当にしてくださった。そこで、褒賞申請のあったLOMを訪ね、社会開発事業の背景・手法・成果などを関係者からヒアリングし、各地の現場を視察して回った。
はじめの頃は、社会開発のイロハのイも分からなかったが、レベルの高い事例に接することで、理論と実践とのすり合わせもできるようになった。また、理解が深まるにつれて、興味も持てるようになった。委員には、自分とはまるで異質なタイプや、次元の違うタイプのメンバーが多く、それも大きな刺激になった。
この当時は、第二次オイルショックの影響で全国的に経済が疲弊し、拡大の一途をたどってきたJCも、会員の中途退会や事業の縮小化などが顕在化してきた。そのような現実を目の当たりにして、自分はJCの社会開発運動にある種の限界を感じるようになった。日本JCにおいても、「誰も反対しないような善意の運動一本やりでは、明るい豊かな社会づくりに繋がらないのではないか」といった考え方が支配的になり、国家や地域の存立基盤に関わるような問題にも関与していくことに、JCの新たな役割が見出されるようになっていった。
そういった背景の中、翌83年、日本JCで資源エネルギー政策委員会の委員長をさせてもらった。当時、日本JCの政策室には、地域経済・教育・福祉・行政改革などを考える委員会がそれぞれ七つほどあり、資源エネルギー政策委員会というのは、その内の一つだった。これらの委員会は、学者や官僚、シンクタンクの研究員などの専門家をブレーンとして運営された。
資源エネルギー政策委員会では、通産省の一柳良雄氏と、東北福祉大学の工藤啓氏がアドバイザーとしてついてくださった。この頃から「分からん者と知らん者が議論しても何も生まれない。JCの立ち位置を明確にしつつ、彼らの持つ情報や知恵、ネットワークを活用しながら、事業を推進していかないといけない」と思うようになった。これはJCに限らず、仕事にも言えるだろう。自分は、様々な分野で専門家の相談相手を持つよう心がけ、彼らの持つ資源を活用しながら、事を進めていくようにしている。このスタイルは、日本JCで委員長をさせてもらった頃から、身に付いていったように思う。
翌84年には、日本JCで長期政策会議に出向の傍ら、LOMでは企画特別委員会の委員長をさせてもらった。いずれも、JCの活動や組織のあり方などについて再学習の機会を得た。
85年に理事長をさせてもらった当時は、IHIの大規模リストラ、神戸製鋼所呉工場の事業縮小、日立造船の因島からの撤退など、深刻な経済環境であった。そうした状況にもかかわらず、呉JCの年会費を2万円アップし、ヤマトイベント、会員交流事業などの従来からの事業に加えて、「強い呉の再生」に向けての運動を活発に行った。政策室の各委員会には、広島修道大学の日隈健壬氏や日本都市センターの檜槇貢氏、三井情報開発の田中雅文氏をはじめ、学者や経済人にアドバイザーになっていただき、結構、本気で調査・研究活動をした。もちろん、呉JCの立ち位置を明確にしながら。
この年、コミュニティカレッジ構想フォーラムや行政改革フォーラム、教育フォーラムといった公開討論会を実施した。そこで行った政策提言は、マスコミにも大きく取り上げられ、話題にもなった。外部からの評価も高く、そのことがやる気と自信、言ってみればJCに「元気」を与えることになり、それがまた次なるエネルギーを生み出すという好循環になったと自負している。但し、この年のプライマリー・バランスはマイナス、つまり、呉JCの単年度決算は赤字であったが・・・。
今、振り返ってみると、82年からの3年間に亘る日本JCへの出向で、自分は一皮むけるきっかけを得た。日本JCに出向させてもらってからは、とりわけ「出会いと縁(えにし)」を大事にするようになった。出会ってからの「縁」をかけがいのないものとすることで、またさらにその「縁」が扇状に広がっていった。
この日本JCでの3年間と、LOMで理事長をさせてもらった年は、まさに「楽しい不安」いっぱいの4年間だった。86年に広島ブロック協議会、その翌87年には中国地区協議会の会長をさせてもらったが、この2年間は、その前の4年間の勢いだったと思う。テーマは、もちろん「元気」だった。
30代半ばから卒業までの六年間は、虚像と実像の鬼ごっこの連続。自分史の中でも最も充実し、刺激に満ちた時間を体感することができた。JCに繋がる全ての人に合掌。

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