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JCで一皮むけた経験book

一皮剥けた経験

出会いの持つ素晴らしさに気付く

室澤良洋 先輩

音戸の地に移り住んだ。まだ音戸大橋がなかった時代である。しばらくして、音戸に友達ができ、その友達を通じて、JCのことを知り、門を叩くことになった。1971年のことである。当時、30歳だった。
入会3年目の73年、指導力開発委員会の委員長をさせてもらった。中河原満さんが理事長をされた年だ。これが、自分のJC生活に最も大きな影響を与えた清水浩洋さんとの出会いになった。この清水さんに4年間、徹底的に鍛えられて、自分は一皮むけた。あの四年間がなかったら、後に理事長などとてもしていなかっただろう。清水さんは、五人の副理事長の一人で、LD(指導力開発)系の担当だった。ある日、清水さんから「LDの委員長をやってくれないか」と言われた。受けたはいいが、「まあ、なんて清水さんは、人使いの荒い人なんだ」と思った。まるで自分の会社の部下のような扱われ方だった。委員長とはいっても名ばかりで、全て清水さんの言われるがままだった。
翌74年は、日本JCの委員会に出向させてもらった。委員長は高知JCの澤村さんで、副委員長は清水さんだった。自分は、清水さんの鞄持ちとして出向させてもらった。この年も清水さんの厳しい指導のもとで過ごす一年となった。
翌75年、清水さんは理事長をされ、自分は専務理事をさせてもらった。例年に漏れず、この年も清水さんにガンガン言われながらの一年になった。正直、何でここまで言われないといけないのかと反発したくなることも何度かあったが、勉強をさせてもらっていると思い、理事長についていった。
翌七六年、清水さんは広島ブロック協議会の会長をされた。このとき、幹事役を要請されたが、「もう三年も続けてやったので、どうか勘弁してください」と断った。ところが、その後、中河原さんに呼び出され、「お前、広島ブロックの会長の意味が分かっているのか。この大役を清水がやるんだぞ。清水がやるなら幹事はもうお前しかいないだろう。それをやらないなんて、お前、清水に恥をかかせる気か。清水を男にしてやれるのは、お前しかいない」と言われた。中河原さんにそこまで言われると、「分かりました」と言うしかなかった。案の定、この年も忍耐の一年になった。
なぜ、こうも毎年、辛い思いをしながら役を受け続けたのか。清水さんは、とにかく頭のいい方で、JCにかける情熱には頭が下がった。話すのも文章を書くのもうまく、呉JCでも際立った存在だった。口が悪く、言い方は厳しかったが、心は温かい人だった。決して悪意はなく、口の悪さがむしろ清水さんの魅力でもあった。今、振り返ってみると、あれは清水さん流の励ましだったと思う。言い方は厳しくても、中身は全て正論だった。その正論から学ぶものは大きく、お陰で随分、鍛えられた。
清水さんとの思い出で忘れ難いのは、高知JCとの兄弟JCの締結だ。74年に、一緒に日本JCに出向していたとき、高知JCとの縁が生まれた。それがきっかけになって、酒席で呉JCと高知JCで、兄弟の契りを交わそうと大いに盛り上がった。そして、清水さんが理事長をされた七五年、兄弟JCの締結をするに至った。この2年間は、2ヵ月に一度は、高知に行っていた。「清水と室澤のコンビで兄弟JCになった」と言われるのが何よりも嬉しかった。
辛い思いをしながらも、役を受け続けた理由は、もう一つある。それは、JCそのものの魅力だ。自分は、他県から来た言わばよそ者である。そのよそ者の自分が、呉という地で人脈を築くことができた。それは、JCに入って、一所懸命、活動を続けたからに他ならない。79年、理事長をさせてもらったとき、「出会いのもつ素晴らしさを見直そう」というスローガンを掲げた。よそ者の自分でさえ、JCというある種の「学校」(LD道場)のような場で、多くの出会いに恵まれ、成長することができた。呉を郷土とするメンバーには、なおのこと、JCが提供してくれるこの出会いのすばらしさを、改めて感じて欲しかった。高邁なスローガンを掲げる気など毛頭なく、ただそのことだけを伝えたかった。
かつて、大之木幸男先輩から「まずは一杯飲もう。JCはここから始まる」と言われたことがあるが、その言葉の意味を、今、とても実感している。現役会員とOBが集まって、飲んで語り合う。こんな単純な場が、年に一度くらいはあってもいいと思う。自分も大正生まれや昭和一桁の先輩方に随分可愛がってもらった。よそ者の自分でさえ「JCの後輩です」と言うだけで、先輩にさっと受け入れてもらえ、JCという共通の土俵に立つことで、たくさんの友人もできる。これもJCの素晴らしさだろう。
次のインタビューは、同じ1940年生まれで、日本JCで業種別部会の部会長もされた白鷹常和さんに繋ぐことにしよう。

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