公益社団法人呉青年会議所 WEBサイト

JCで一皮むけた経験book

一皮剥けた経験

JCの友情の厚さに触れる

明神博 先輩

1976年、当時、26歳でJCに入会した。同じ商店街のJCメンバーの方に誘われ、初めてJCの存在を知った。元々、まちづくりというものに興味があり、入会しようと思ったが、いざ入ってみると、JCの運動は、まちづくりだけではなく、ひとづくりも大きな柱にしていることを知った。その後、修練系の類はあまり得意ではなく、以降、卒業するまで苦労が絶えなかった。
入会した翌年の77年、経営開発委員会の副委員長をさせてもらった。この年、JCスクールというタイトルで一般の人を対象にした有料の勉強会を4、5回開催した。講師は、著名人ばかりで、「よくもまあこんなビッグ・ネームの講師に繋がるルートがあるものだ」と感心し、また実際に招聘できるJCの力に驚いた。当時の自分には、まさに驚きの連続だった。また、そんな著名な講師と電話で打ち合わせをしている自分が不思議でならなかった。
JCには、15年間在籍し、その間に本当にたくさんの役をさせてもらった。但し、続けてやり過ぎると、アイデアが枯れていくような感じがしていたのも事実である。最初に委員長をさせてもらったときは、やりたいことが色々と浮かんでいたが、その後は、組織全体のことや適材適所といったことも考えねばならず、次第に窮屈になっていった。祭りやイベントなどの事業は、見るのも楽しいが、やはり参加して実際に活動している方がもっと楽しい。方向性を示すのは大事だが、具体的なレベルでものを考え、事業のために予算要求をしたり、前線で汗をかく醍醐味は大きい。
81年、会員交流委員会の委員長をさせてもらった。この年、JCの友情の厚さを目の当たりにした。8月に野呂山で一泊二日の納涼家族会を行い、夜はバーベキューを用意した。このとき、理事長の上俊則さんから「今日の食事は美味いなあ」と言われたあの言葉が今でも忘れられない。入院先から一時退院されていた上さんは、納涼家族会の後、再び入院され、その2ヵ月後、亡くなられた。あのときのバーベキューが、最後の食事になったと聞いた。葬儀は、JC葬という形で行われ、副理事長の4人がJC旗をかけた棺を担いで、メンバー全員で上さんを見送った。世の中には色々な団体があるが、これほどまでに厚い友情で固く結ばれた組織が、果たしてあるだろうかと思った。
83年には、室長をさせてもらった。梶岡幹夫さんが理事長をされた年だ。この年は、自分自身がJCの友情の厚さに触れた。ある日、中通商店街で大きな火事があり、自分の店も全焼してしまった。火事の翌朝、30人~40人のメンバーが、焼け跡の片付けを手伝いに来てくれた。本当にありがたく、この恩は今でも忘れられない。以降、JCで何らかの役を頼まれたときは、全て受けようと思った。力になれるかどうかは分からなかったが、自分にできる範囲のことは全力を尽くそうと誓った。それが、あのとき受けた恩に対するせめてものお返しになるかもしれないと思ったからだ。
86年には、日本JCに出向し、地域行政特別委員会の副委員長をさせてもらった。ホテルでの会議や、超一流の講師による講演など、田舎者の自分には、刺激の連続だった。東京には、ほぼ月に一回の頻度で行っていた。家族の理解があってのことである。
八九年には、理事長をさせてもらった。トップの立場になると、たとえ専門家ではなくとも、一つのビジョンや思想を持っていないと、メンバーの皆を引っ張っていくことができない。どのような社会的責任をいかに果たしていくべきか。それを深く考えさせられた。こういったことは、理事長をさせてもらう前は、あまり考えたことがなかった。トップと、トップでない立場の違いなのかもしれない。
この年、「海と島の博覧会」が開催され、その一部が呉の天応地区で行われることになっていた。前年の予定者段階で、呉市から「全てJCで企画・運営をしてもらえないか」と打診され、受けることにし、呉‐東京の二元中継シンポジウムをはじめ、呉会場で各種イベントを行った。
二元中継シンポジウムでは、呉出身の元大蔵省事務次官である保田博さんや、増岡組の増岡正剛社長のお力添えを得て、通産省の太田房江氏をはじめ、地元出身の霞ヶ関の官僚の方々やディスコの関家憲一社長にパネラーとして参加いただいた。東京会場は、日比谷高校のグランドに隣接する星陵会館だった。この事業でも、JCの名刺で通産省の官僚の方をはじめ、色々な方に会うことができた。これは、当時の自分には「刺激」以上のものだった。「海と島の博覧会」で、呉市から任された予算総額は、6500万円にも及び、委託された組織の長として、大きな重圧を感じていた。12月の卒業式で、諸先輩方から「よくやったな」と言われ、やり終えたという充実感が一層わいたのを今でも鮮明に覚えている。
海事博物館の創設は、JCが提案したものであり、当時、広島県の副知事だった小笠原臣也さんにお願いをしに行ったりもした。それが、現在「大和ミュージアム」として実現し、活況を呈しているのは、本当に嬉しい限りである。
JCに入ってから、論理的に物事を考えることができるようになった。多くの人とのネットワークもでき、日本JCに出向していたときにお世話になったアドバイザーの方には、今でも力になってもらっている。呉市の職員の方についても、よく知っている方は100人を超えると思う。これらは、全てJCで得た財産であり、15年間に亘る自分のJC生活を支えてくれた両親、妻、子供たちには本当に感謝している。
次のインタビューは、自分が理事長をさせてもらった年に、委員長をしてくれた小松慎一君に繋ぐことにする。

Page Top