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JCで一皮むけた経験book

一皮剥けた経験

一所懸命やっていれば、人はどこかで見てくれている

神垣和典 先輩

1989年、地域ネットワーク政策委員会の委員長をさせてもらった。当時、35歳だった。この年、「呉・芸南コリドール」という構想を掲げた。「コリドール」とは、回廊という意味で、日商岩井に勤める呉出身のまちづくりの企画者の方からヒントとしていただいた言葉だった。内容としては、芸南地方の方とまちづくり活動を連携し、点のまちづくりではなく、面のまちづくりを目指そうというものだった。言わば、近年の広域合併を先取りしたものだった。具体的に行ったのは、芸南地方の方々との交流だった。
一月には、県民の浜の「輝きの館」で、島しょ部のまちおこしのメンバーの方々と意見交換を行った。その際、島の人から「よろしく頼むよ。あなたが責任者でしょ。顔を見たら分かるよ」と言われた。島の人から本気度を見られていたのだろう。それだけ、島の人も必死だった。4月に行われた呉みなと祭では、芸南地方の方々も、バザールコーナーを設け、パレードにも参加してくれた。これは、一月に行った意見交換の一つの成果でもあった。この呉・芸南コリドール構想は、芸南各町村で大いにうけた。全て手弁当だったこともあり、共感を得られたのだろう。JCメンバーからも「島のことは、神垣に聞け」と言われるようになった。
この年の七月には、呉‐東京二元中継シンポジウムを行った。東京会場は、日比谷高校の同窓会館である星稜会館だった。ハイ・ソサイアティの象徴として、その場所を選んだのだ。このシンポジウムは四年間続き、この年はその第一回目だった。東京会場には、呉出身の東京在住者が約100人集まった。そこにJCメンバー20人も加わり、総勢120人余りとなり、会場外にあふれるほど大変な盛り上がりを見せた。コーディネーターには、中国工業技術試験所の上嶋英機先生、パネラーには、当時、通産省に勤務していた太田房江氏(現大阪府知事)をはじめ、ディスコの関家憲一社長や、作家の池端俊策氏等がいた。ここで、呉海事博物館(現大和ヤマトミュージアム)創設の提言も行った。このシンポジウムについては、この年、発行した小冊子『海とマチと人と』にその詳細が記録されている。
 JC‐VANの運営も、この年の貴重な経験の一つだ。現在のインターネットのはしりのようなもので、パソコン通信を市民にオープン化した。日本で初めての試みで、日本JCからの評価は高かった。
92年には、総務室担当の副理事長をさせてもらった。この年は、40周年の式典・懇親会などでお金を使い過ぎ、ラインに割り振られた年間予算をオーバーしてしまった。一方、他のラインは、ギリギリまで支出を切り詰めて運営していたので、理事会で謝罪をすることになった。確かに痛恨の極みではあったが、式典・懇親会については、広島JCの方から「呉JCでないとできない手作りの素晴らしい演出でした。呉の底力を見せてもらいました」と言われ、諸先輩方からも「今日は良かった。さすが俺たちの後輩だ」と褒められた。その賞賛の声に比べれば、「謝罪」はある意味、自分にとっては勲章でもあった。
この年、担当ラインで40周年の記念誌を作成した。過去の資料や写真がいっぱい詰まったダンボール数十箱に囲まれながらの生活が当分の間、続いた。実は、この記念誌の「褒賞」関連の六ページは、自分としてはカラーで残したかった。印刷をお願いした会社の会長からは、「たとえカラーでも、JCで決められた予算通りにやってあげるよ」と言われていた。しかし、理事会での謝罪の一件もあり、派手にすることをつい自重してしまったのだ。呉JCにおける創立20周年から40周年までの間の社会開発運動と政策開発活動は特筆されるべきものであり、その集大成である過去三回の褒賞申請に関するページは、今にして思うと、やはりカラーにしておくべきだった。何とも、口惜しい。
この記念誌を芸南方面の関係先に送付する費用は、予算計上していなかったため、自分の会社から送るつもりでいた。ところが、それを知った事務局員の佐々木幸恵さんが「神垣さん、これを使ってください」と事務局の切手を渡してくれた。金額にしてみればごく僅かではあったが、その気持ちが嬉しかった。やはり、人はどこかで見てくれているものだと感慨深く思った。かれこれ十五年も前の話であるが、このときの感謝の気持ちは今でも忘れていない。
世の中、急に変化が生じるものではなく、必ず変化の予兆がある。その起点となるのは、政策だろう。それが色々とアレンジされていく過程で、変化が生じ始める。だから、国の政策や業界の方針などは、しっかりと注視しておく必要がある。また、一所懸命やっていれば、人は必ず力を貸してくれるものだ。そこに中身のある政策が伴えば、行政や大企業、有識者からの賛同も得られて、弾みがつく。こういったことも、全てJCで学んだ。
次のインタビューは、92年に一緒に副理事長をした楠孝三郎さんに繋ごう。

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