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JCで一皮むけた経験book

一皮剥けた経験

レベルの高い仲間との付き合いで、経営者としての視座が広がる

糸谷博海 先輩

1979年、総務委員会の副委員長をさせてもらった。入会3年目で、当時、27歳だった。この頃は、各委員会とも副委員長が二人いた。そのうち、一人は入会年度が浅いメンバーの登竜門になっており、残る一人は比較的、経験豊富な人がなっていた。そんな中、委員長の西本茂昭さんが長期の入院をされてしまった。もう一人の副委員長は、あまり動いていただけなかったため、期せずして、自分が委員長代行として、何もかも仕切らないといけなくなった。右も左も分からない時期で、また仕事も忙しく、この年の苦労はとりわけ大きかった。
しかし、今、振り返ってみると、入会以来、JCに対してあまり積極的でなかった自分が、この年を境に、一歩前に踏み込むようになったと思う。その二年後には、文化問題委員会の委員長をさせてもらった。しかし、前々年の「委員長代行」の経験がよほど効いたのか、苦労をしたという実感はほとんどなかった。
87年には、副理事長をさせてもらった。三宅信一郎さんが理事長をされた年だ。この年の正副会議は、副理事長の槙岡達真さん、谷本洋明さん、桑田勝彦さん、それに専務理事の大島淳稔さんと、いずれも皆さんよくしゃべられる方ばかりが揃っていたので、毎回、ああでもない、こうでもないと、議論が沸騰した。
卒業年度の91年には、広島ブロック協議会の副会長をさせてもらった。この年の卒業予定者は、兎年だったので、ラパン(仏語で兎の意味)の会と名付け、前年の頃から時々、集まっては、皆で楽しく一杯飲んでいた。90年に理事長をされた奥原武範さんもその一人で、同い年ということもあり懇意にしていただいた。自分としては、87年に副理事長をさせてもらったのを最後に、卒業に向けて軟着陸するつもりでいたが、奥原さんから「ブロックの副会長をしてみないか」と言われたことで、「ラストイヤーにもう一花咲かせてみよう」と思い、やらせていただくことにした。
当時、ブロックの副会長は、自動的に日本JCに出向することになっていたのだが、自分はそれを知らなかった。日本JCへ出向するとなると、毎月東京へ行かないといけない。あの頃は、バブルの末期でまだ忙しく、仕事はあるが、職人はいないという状況だったため、数日間、会社を留守にするのは、容易ではなかった。東京に行っている間は、職人の手配をするのに、ひたすら電話をかけていた。とは言うものの、日本JCへの出向で、LOMやブロックとは違った世界をJC生活の最後の年に見させてもらい、自分にとって貴重な経験になったと思う。また、この年は、ブロックの会長とともに各LOMを公式訪問して回った。これもまた、かつてない経験で、行く先々で多くの方との出会いがあり、そこでもまた、たくさんの刺激を受けた。
考えてみると、自分のJC生活は、人との出会いに恵まれていた。彼らの大半は、経営者である。もちろん、時代の波に乗れず、沈むメンバーもいたが、その一方で荒波をかいくぐり、立派に経営をしているメンバーもいた。JCというフィールドで、レベルの高い彼らと濃い付き合いができ、経営者としての自分の視座が広がったように思う。もし、JCに入っていなかったら、今の会社はもうなくなっていたかもしれない。
当社は、公共部門の電気工事を主な業としている。ところが、ここ数年、公共工事をめぐる環境が厳しくなったため、近年、大幅なリストラを行い、人員は、三分の一になった。一方、同じ時期に、介護事業を立ち上げた。JCに入っていなかったら、このようなことは、していなかったと思う。リストラを恥ずかしいことだと思い、座して死を待っていたかもしれない。また、新規事業を行うといった柔軟な発想もなかっただろう。その意味でも、JCには感謝している。
次のインタビューは、山科憲司さんに繋ごう。86年に事務局長をさせてもらったとき、山科さんは専務理事をされていた。今でも、あの年の事務局チームで、年に一度は集まっている。

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