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JCで一皮むけた経験book

一皮剥けた経験

どこへ出ても物怖じしなくなる

賀谷満夫 先輩

1984年、青少年開発委員会の委員長をさせてもらった。JCに入会して三年目の35歳のときだった。この年、呉みなと祭でヤマトイベントを行った。行政(呉市)とこれほどまでに共同で事をなしたのは、これが初めてだったのではないかと思う。あの当時、4月に呉みなと祭を、そして5月に子ども祭を行っていた。呉のような規模の街で、一週間の間に二つのイベントを実施していると、いずれもが中途半端な規模になりがちで、また、マンネリ化もしていたので、「二つのイベントを一本化してみてはどうか」とJCの方から呉市に提案した。このとき、呉市の窓口は、企画課主査の貞国信忠さん(現呉市助役)だった。貞国さんは、JCの提案に耳を傾けてくださった。
まずはじめに、祭りのコンセプトを考えるため、「呉のメインは何たるか」を考え続けた。その結果、「やはり戦艦大和しかないだろう」ということになった。しかし、この案を携えて自治会連合会の会合に臨んだところ、「戦艦大和というのは、戦争色が強すぎる。これでは協力し難い」と言われてしまった。持ち帰って再度検討した結果、戦争色を薄めるために、「戦艦大和」ではなく「宇宙戦艦ヤマト」を祭りのコンセプトにしようということになった。自治会連合会からも「それなら協力できる」と言ってもらえた。
宇宙戦艦ヤマトとなれば、原作者の松本零士氏は何としてでも招聘したかった。そこで、担当室長の海崎一秋さん、それに呉市の貞国さんと一緒に上京し、出演交渉を行ったところ、快諾をいただくことができた。その日、大雪の東京で祝盃をあげたことは良き思い出となっている。
祭りの当日は、宇宙戦艦ヤマトを模したソーラーバルーン(熱気球)を屋外に展示することにした。30㍍~40㍍はあろうかという巨大な代物を、黒いビニールシートを使って、呉市体育館で作成したが、出来上がってみると色が真っ黒だったため、宇宙戦艦ヤマトというよりは、むしろ潜水艦のようだった。
行政との共同となると、やはり制約が多かったが、呉市の貞国さんや、その上司にあたる岡田督司さん(当時企画課課長/現広島バス社長)が、そこを何とかうまく突破できるよう、知恵と力を貸してくれた。貞国さんとは、まさに連日連夜、会っていた。彼は、この事業の実現に向けて、JCメンバーと同じ皮膚感覚で一緒に汗をかいてくれ、役所の担当窓口というよりも、むしろ「同士」のようだった。このヤマトイベントは、おそらく呉市が呉JCという団体をより踏み込んで認知するきっかけにもなったと思う。
室長の海崎さんは、自分の良き知恵袋的な存在で、文章が得意でない自分に代わって、うまい文章を練ってくれた。また、理事長の永田徳博さんも大きな支えになってくれ、自治会連合会の会合に出向く際、理事長自ら同席してくださったこともあった。そういった方々が自分の周囲にいて、フォローしてもらえる環境にあったことは、本当に幸せだったと思う。
呉みなと祭は四月の開催だったが、その準備のため、委員長予定者だった前年の九月から、ずっとトップスピードで走り続けた。終わってからも、やはり行政と共同で行った事業だっただけに、夏が終わる頃までは、色々と後処理が残っていた。まさに「ヤマト」に始まり、「ヤマト」に終わる一年だった。
この一年を通して、本当に多くの方と知り合うことができ、呉市や自治会連合会の方とも深い付き合いができた。また、この事業に携わってからは、どこへ出ても物怖じしなくなった。それまでは、JCでも仕事でも、どこか物怖じする自分がいた。自治会連合会の会合でも、最初はしどろもどろだったが、この一年間で随分と揉まれたせいか、そういうことがまるでなくなった。一つの大きなことをやり終えたという達成感が、自分の中でどこか自信に繋がったのかもしれない。事業が終わった後に呉森沢ホテルで行ったビールかけのことが今でも忘れられない。
次のインタビューは、翌年、ヤマトイベントのPartⅡを委員長として行った村田祐二君に繋ごう。彼は、自分が委員長をさせてもらったとき、幹事をしてくれた男でもある。

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