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JCで一皮むけた経験book

一皮剥けた経験

想定外の状況に直面しても、必死にやれば何とかなる

銭村彰太郎 先輩

JCには、1994年に入会した。30歳になる年だった。入会二年目には、幹事をさせてもらい、三年目はフロアー・メンバーだった。この3年間は、JCで起きていることは、全て「対岸の火事」だった。幹事をさせてもらったときも「言われたことだけを無難にこなして、迷惑さえかけなければそれでいい」と思っていた。JC活動に熱心な人の気持ちなど、まるで理解できなかった。
そんな自分に大きな転機が訪れたのは、入会4年目に広報渉外委員会の副委員長をさせてもらったときだ。委員長は、同期の米田一明さんだった。JCに対しては、一歩引いたところがあったが、同期の米田さんから「銭ちゃん、ちょっと手伝って」と軽い感覚で頼まれ、自分としてもそんなノリで受けさせてもらった。ところが、その米田さんが委員長予定者のときに、病気で入院された。12月半ば過ぎのことである。
気が付くと、会員手帳の校正作業や年賀誌の発行、さらに京都会議のロムツアー、ロムナイトの設営など、やらねばならないことが目白押しだった。理事会にも、1月早々から委員長の代理として出席する羽目になった。専務理事の屋敷貢一さんからは、「銭村君、君が副委員長なんだから、君がやるしかないんだよ」と言い放たれた。そして「銭村君、これ、どうなっているの」と毎日電話がかかってきた。心構えもないまま、突如として、このような状況に追い込まれ、はっきり言って、「大迷惑」だった。あまりの辛さに、理由をつけて退会しようかと考えたこともあった。
しかし、「窮すれば通ず」とはよく言ったものである。覚悟を決めて、頑張った。委員会を招集し、メンバーにどんどん役割を振った。会議ばかりではダメだと思い、飲み会や食事会の場も設け、メリハリをつけるようにした。京都会議のとき、委員会メンバーの三島義弘さんが忙しい合間をぬって、日帰りで駆けつけてくれたことがあった。仕事の世界では感じ得ないような優しさに触れて、本当に嬉しかった。
理事会でも、最初の頃は、ガチガチに緊張していたが、段々ときちっと答弁できるようになった。二ヵ月が過ぎた辺りから、「銭ちゃん、すごいね」と言ってもらえるようになった。中には、口の悪い方から「銭ちゃんの方がいいんじゃないの」と言われることもあった。こうなると、人間、満更でもない。必死にやれば何とかなると思えるようになり、またその面白みも感じられるようになった。委員会を仕切って、メンバーを引っ張っていく醍醐味を味わい、入会以来、ずっと傍観者だった自分に変化が生じ始めた。
この委員長代行という立場は、結局、約半年間ほど続いた。夏には委員長が復帰され、以降は、通常の状態に戻った。妙なもので、はじめの頃は「大迷惑」と感じていたのが、もう委員会を仕切ることができなくなると思うと、どこか寂しさを感じた。激務の半年間ではあったが、夢のような半年間でもあった。人は、想定外の状況に直面したときほど、真価が問われる。この半年間で、自分は一皮むける機会を得た。
99年には、会員交流委員会の委員長をさせてもらった。初めての委員長ではあったが、97年の委員長代行の経験があったので、2回目の委員長という感覚だった。よく言えば、気持ちにゆとりがあった。悪く言えば、どこか擦れたところがあり、「大体この位やっておけばいいだろう」と思う自分がいた。理事会も、委員長代行のときに半年間、出ていたので、初理事の初々しさのようなものはなかった。
そんな自分に活を入れ、奮い立たせてくれたのが、担当室長の小倉裕之さんだった。議案について相談をすると、「何でそんなくだらないことを聞くのか。自分で考えろ」と突き放された。「面白くない」とか「そんなのただのテレビの真似じゃないか」などときついことをいっぱい言われた。気が重くて、電話がかけられないこともあった。しかし、「あなたにできないことは、あなたのところには回ってこないんだから」とよく言われた。いつもつっけんどんな態度だったが、自分のことを認めてくれていたように思う。
後に理事長をさせてもらうことになったとき、一番喜んでくれたのは、小倉さんだった。2003年の呉みなと祭の際、小倉さんが目立たないように自分の足を蹴ってきた。ちょうど、「次年度の理事長に」というレールが敷かれつつあった頃で、小声で「専務理事はもう決めたのか」と聞かれた。誰よりも気にかけてくれていた。その年は、小倉さんと2人で監事をさせてもらっており、正式に次年度の理事長予定者に決まってから、「これからは、面倒な挨拶は俺がする。もうお前はしゃべらなくていい」と言ってくれた。その気づかいが嬉しく、彼に「同志」を感じた。
2001年には、専務理事をさせてもらった。あの頃は、専務理事をする人間は、将来の理事長候補であるという見方が強く、正直、「嫌な状況に立たされてしまった」という気持ちがあった。自分としては、JC生活はもうこの専務理事で終わりだと思っていた。それだけ、専務理事の業務に追われていたのだ。
ところが、専務理事になると、役員選考委員選挙の開票現場に立ち会わなくてはいけなかった。生々しい話ではあるが、好むと好まざると、そこで自分の票数が見えてしまう。自分のことを支持してくれるメンバーが、これだけいるのだという現実を直視した瞬間だった。そこで、また小倉さんがわざとらしく言う。「さすが、銭」。これだけのメンバーの気持ちを自分のわがままで無下にすることはできないと思った。「もしかすると」という覚悟がこの頃からできてきた。
そして、その2年後、自分は理事長予定者として総会で承認された。予定者の半年間は、眠れない日が続き、あれこれ悩み、考えていた。新年互礼会のとき、今年一年間でやりたいことを三つほど話した。そこでもう言ってしまった以上、後戻りできなかった。今、振り返ってみると、ここで腹が据わったように思う。
自分のJC生活は、松本明彦君という男の存在を抜きに語ることはできない。彼は、自分が委員長をさせてもらったときに幹事をしてくれ、そのとき以来の間柄だ。そして、自分が理事長をさせてもらうことになったとき、彼に「副理事長をやってもらえないだろうか」とお願いをしに行った。彼は、間髪入れずに即答してくれた。「そんなの当たり前じゃないですか」。彼は、動物病院の院長を務める忙しい男だ。お願いするのも申し訳ないと正直思っていた。それなのに、「そんなの当たり前じゃないですか」と言ってくれたのだ。心底嬉しかった。自分が卒業するとき、泣きじゃくりながら、卒業証書を渡してくれた彼の顔が忘れられない。JCに入って、本当にすばらしい仲間を得た。
次のインタビューは、神垣伸司さんに繋ごう。2001年に専務理事をさせてもらったとき、神垣さんは副理事長をされていた。

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