JCで一皮むけた経験

大之木伸一郎 先輩~人前で話すのが苦手だった自分が、「修練」によって話せるようになる~

 JCへの入会は、1965年、23歳のときだった。入会時の面接では、3分間スピーチで1分間しか話すことができず、「話がないのなら、そのまま立っておけ」と言われ、まさに冷汗ものだった。そんな自分が、15年後に理事長をさせてもらったときには、メンバーから「早く終わればいいのに」と思われるほど、自分の考えを長時間でも話せるようになった。それは、ひとえに「JC大学」での修練のお陰だ。

 

 70年、日本JCの国家問題室の委員として出向させてもらった。当時は「出向などしたくない」と思ったが、その年、日本JCの総務委員会委員長として出向することになっていた従兄弟の大之木精二から「お前も日本JCを経験してみろ」と言われて、出向することになった。まず名前からして「難しい委員会だろうな」とは思っていたが、最後に論文の提出を義務付けられていることを知って驚いた。その後、広島大学の先生の指導を仰ぎながら、何とか頑張って書き上げたその論文が、他LOMの新聞に掲載され、話題になったのは、正直驚きだった。

 

 73年、32歳のとき、副理事長をさせてもらい、初めて全般を見る立場になった。この年、呉JC始まって以来の「家族同伴野呂山キャンプ」を行うことになった。色々と反対意見もあったが、痛風で国立病院に入院されていた理事長の中河原満さんを訪ね、相談したところ、「自分の思うようにやってみろ」と言ってもらえた。理事長の力強い後押しを得て、この一泊のキャンプは実現することができた。今でも、当時の新入会員は「あのときは、大之木さんにこき使われた」と懐かしそうに語ってくれる。

 

 自分が入会した頃は、JCのステータスはとても高かった。「入る」というよりも、「入れていただく」という感覚である。メンバーは、JCバッジや、地域社会に認知されていることに誇りを持っていった。そのような環境の中で、副理事長をさせてもらったので、大きな重圧と責任を感じ、このような大役が自分に務まるか心配でならなかった。何とか役割を果たすことができたのは、中河原さんの暖かいご指導と、メンバー全員の深い友情のお陰である。

 

 75年、34歳のとき、日本JCの拡大委員会副委員長として出向させてもらった。委員長は、浜松JCの間渕康次さんという方で、「浜松まで面接に来い」と言われた。「何もそこまでして」と思ったが、会ってみると、間渕さんの人間性や情熱に圧倒され、その魅力の虜になり、「この人にならついていける」と思った。80人位の委員会で、全国各地を間渕さんと一緒に回った。親分肌で本当に面倒見のいい方だった。

 

 日本JCには、結局、五回ほど出向させてもらい、日本JC業種別部会(木材部会)にも5回ほど出させてもらった。卒業年度には、歴史と伝統のある木材部会部会長を拝命したが、このことが、後に日本木材青壮年団体連合会(会員数約2500名)の会長就任に繋がった。全て、手弁当で大変だったが、随分と勉強になった。もちろん、時代背景も良かったからできたことである。

 76年、35歳のとき、二度目の副理事長をさせてもらった。この頃から、人前での挨拶に対して抵抗がなくなったように思う。仮入会員のとき、1分しか話せなかった自分であったが、「JC大学」に入学したことで、人生が大きく変わったと言っても過言ではない。

 78年、37歳のとき、日本JCの青少年開発委員会幹事をさせてもらった。この年、「次年度、当委員会の委員長をしてもらえないか」と委員長の久保田さんから言われた。日本JCの委員長といえば、当時の呉JCでは、従兄弟の大之木精二と奥原征一郎さんの二人しか経験していなかった。最終的には、その話は、諸事情によりなくなり、久保田さんからは深謝されたが、自分としても正直ホッとした一面があった。とは言うものの、自分が人事の打診をするときは、絶対に間違いないと状況が固まってからにしようと強く思った。

 

 81年に永田徳博君が日本JCの委員長に就任したが、彼に委員長人事の件を話したのは、全てが固まってからだった。80年、東京の赤坂プリンスホテルの廊下で、次年度会頭予定者の森輝彦さんとすれ違い、そのとき「大之木君、あの件、分かっているから」と言われた。偶然一緒にいた永田君に「今、森さんが言った『あの件』とは、あなたのことだ。次年度、日本JCの委員長ポストをお願いしている。もう間違いない。だから、永田君、絶対に断ったらダメだ」と言った。呉JCで3人目の日本JC委員長誕生の瞬間だった。呉JCからは、現在までのところ総勢9人の委員長を輩出している。

 

 80年、39歳のとき、理事長をさせてもらった。この年の正副理事長・専務理事会議は、自宅で行った。午後7時から始め、雑談を交え、夜食にうどんを食べ、一杯飲みながら、それでも11時には終わっていた。各委員長からあがってきた議案をこの会議で徹底的に議論し、事業内容と予算を固めた上で、理事会にかけていた。それを受けて各委員長が事業計画を具体化し、委員長主導のもと、事業が実行されていった。そして、事業に成功することで感動を共有し、友情を深めることができた。これがJCだと思う。会議は長くても2時間以内に終わらせるよう訓練されたものである。

 

 
 自分たちの時代には、基本的な礼儀作法に大変厳しく、上座と下座、名刺の出し方、言葉遣い、先輩を敬う姿勢、後輩の面倒見など、たくさんのことを諸先輩方から学んだ。それが、会社の中でも役に立ち、自らの啓発にも繋がった。これが、JC三信条の一つである「修練」であろう。青年会議所運動は、いつの時代でも修練、友情、奉仕が重要であるが、自分としては「自らの成長なくして、青年会議所運動なし」と思っている。お互いが切磋琢磨し、「修練」することで、「友情」が芽生え、さらに自らの企業を通じて地域社会へ「奉仕」する。これこそが、真の青年会議所運動だと思う。

 

 JCでは、常に自分よりも高いハードルを与え続けられることで、成長が促される。スピーチ一つとってみても、あらゆる新聞や雑誌などに目を通し、聞き手を退屈させない原稿作りをすることが大切である。このことを教えてくれたのもJCだ。だから、出席しないのは損だと思っていた。メリットは与えてもらうものではなく、自らが奪うものである。世の中にはたくさんの団体があるが、修練、友情、奉仕の三信条をもとに勉強できる団体はJCしかない。
 

 

 但し、「JCは飯を食べさせてくれるわけではない」。現役会員はこのことを忘れてはならない。会社や家族を犠牲にしたJC運動は絶対にあり得ない。このことを肝に銘じて、素晴らしいJC生活を送って欲しい。それには、良きリーダーであらねばならない。それを「修練」で勝ち取ってもらいたい。

 

 次のインタビューは、理事長をさせてもらった年に副理事長をしてくれた胡井曠荘君に繋ぐことにする。