JCで一皮むけた経験

志々田幸治 先輩  ~組織の中での物事の進め方や筋の通し方を学ぶ~

 大学を卒業後、東京で就職した。その後、呉に帰ったものの、地元に友人は少なかった。そんな中、1987年、31歳のとき、JCに入会した。入会して早々、テニス同好会に入った。当時、伊原直昭さんが幹事で、自分は副幹事をさせてもらった。テニス同好会といっても、決してお気楽な遊びではなかった。呉市役所や海上自衛隊、バブコック日立との対抗戦を企画・運営・実施し、その段取りの周到さや実現への執着心に、入会間もない自分は、衝撃を受けた。当時、一緒にテニスをした市役所の方は、今では皆、要職についている。気軽に話ができるのもあの頃のテニス同好会のおかげだ。JC内部でも、このテニス同好会で会員間のネットワークの基礎ができたと言っても過言ではない。

 

 92年、専務理事をさせてもらった。理事長をされたのは、賀谷隆太郎さんだった。賀谷さんとは、それまでこれといった接点がなかったが、血液型の相性まで調べて、自分を女房役に選んでくださった。賀谷さんは、学者タイプのまじめな方で、例えて言うなら、皆でパチンコ店に行っても、店内には入らず、「じゃあ、私はここで待っていますから」と言って、一人、店の前で皆が終わるのを待たれるような方だった。

 

 この年は、創立40周年という節目の年でもあり、投げ出したくなるほど大変で、一年を通して、まさに休みなしだった。春に、40周年記念事業として、ボリショイサーカスの公演を呉市文化ホールで行うことになった。ところが、開催をいよいよ間近に控えた中、文化ホールの担当者から「動物の持ち込みは禁止します」と言われた。チケットも既に販売されており、絶体絶命の状況に陥った。この期に及んで「サーカスとは何か」ということを一所懸命調べた。ロシアでは、サーカスは文化そのものだった。

 

 文化ホールの側が問題にしたのは、動物の臭いだった。とりわけ、熊の臭いを問題視していた。何とか臭いの問題を解消できないだろうかと専門の業者に相談もした。また、動物抜きでサーカスをやってみてはどうかという案も出た。そのため、呉の前に公演を予定していた大阪へ、急遽、メンバーを派遣し、その可能性を検討してもらった。しかし、視察から帰ってきたメンバーからの報告は、「動物抜きのサーカスというのはあり得ません」とのことだった。そこで、以前、呉みなと祭でお世話になった呉市の職員の方を通じて、必死になって呉市に理解と協力を求めた。紆余曲折の末、開催日数日前になって、呉市は例外的に許可してくれた。しかし、翌年からは、動物の持ち込み禁止については、条例で明文化された。

 

 賀谷さんは非常に責任感の強い方で、途中で投げ出すようなところがまるでなかった。しかし、もし万が一、開催が中止ともなれば責任をとる覚悟でいた。それが表情ににじみ出ていた。うわべだけのかっこ良さとは違う何かを持たれていた。「各々の立場で責任を果たす」とはよく言われるが、その意味で、賀谷さんから学ぶところは多かった。

 

 この年の理事会は、議論が紛糾することが多く、その後の飲み会でも毎度のように喧嘩を繰り返していた。もちろん、皆、それぞれの立場で良かれと思って意見を述べている。専務理事の自分に対しても、多くの人が色々なことを言ってくれる。しかし、それぞれ立場が異なるため、どうしたものかと迷うことばかりだった。そんな中、組織の中での物事の進め方や、筋の通し方を学んでいった。大儀にそったものかどうかという視点から、いつも考えるようにした。90年に委員長をさせてもらったときは、まだ未熟で、一皮むけきれなかったが、この年は一皮むけた感がする。開き直りもあった。

 

 正副が上程した議案は、通さないといけない。それが専務理事である自分の責任であり、理事会で委員長に否決されるようではダメだと思っていた。しかし、そのためにはどうすればよいか。ここに苦労があり、そこに学びがあった。摩擦も多く、時には殴りあい寸前のこともあったが、JCでの喧嘩に遺恨はなかった。また、喧嘩を仲裁するタイミングや、喧嘩の収め方も学んだ。結局、一人で考えるよりも、色々な立場から考えた方がよりいいものになっていく。摩擦はその過程で発生するものだ。JCで学んだことは、仕事でも活かされているばかりか、今の自分という人間が形成された拠り所にもなっている。

 

次のインタビューは、専務理事をさせてもらった年に、副理事長をされた藤井清実さんに繋ごう。