JCで一皮むけた経験

榎博司 先輩 ~周囲の理解と協力があってはじめてJC活動ができる~

 JCには、1974年、28歳のときに入会した。その年、6月に結婚式を挙げることになっていたが、偶然にも、その日が広島ブロック会員大会と重なってしまった。当時、ブロック大会は、仮入会員の出席義務行事だった。ところが、その年の理事長だった奥原征一郎さんは、「仮入会員は、ブロック大会には出なくていい。皆、榎の結婚式に行ってやれ」と言ってくださったので、同期全員が自分の結婚式に出てくれた。奥原さんの計らいが何とも嬉しかった。

 

 七九年、広島ブロックで指導力開発委員会の委員長をさせてもらった。当時、ブロックの委員長は、ほぼ自動的に日本JCに出向することになっており、自分もLD(指導力開発)系の委員会に出向させてもらった。日本JCへの出向は、経済的にも時間的にも負担が小さくなかった。もちろん、その負担を最終的に負っていたのは家族である。家族の理解と協力なしに、日本JCへ出向することなどできなかった。そのため、日本JCで東京に行っているときは、何かを吸収して帰ろうと必死だった。

 

 出向する前は、日本JCに出向するメンバーは、東京で優雅に過ごしているものとばかり思っていたが、セミナーでは、皆、何かを学び取ろうとする意欲がにじみ出ており、懇親会でも、より多くの仲間を作って帰ろうという雰囲気に満ちていた。そんな彼らの姿勢は、大いに刺激になった。しかし、考えてみると、日本JCへの出向のみならず、そもそもLOMでの活動も、周囲の協力があってはじめてできることだ。JC活動をさせてもらっていることそのものに感謝をしないといけないと思った。

 

 81年、総務室担当の副理事長をさせてもらった。この年、理事長の上俊則さんが、約半年間の闘病の末、十月に亡くなられた。闘病生活を送っている間も、例会などには出て来られていたが、やはり、無理をされていたのだと思う。最後はJC旗をかけた棺を、副理事長全員で担いだ。辛く悲しい出来事だった。その後、残されたメンバーで話し合った結果、自分が理事長代行をさせてもらうことになった。翌年から、理事長に万が一のことがあったときのために、「筆頭副理事長」を設けるようになった。

 

 83年には、広島ブロック協議会の副会長をさせてもらった。この年は、各地のLOMを訪問して回り、会長が行けないときは、自分が代わりに挨拶をした。こういう機会は、本当に勉強になったと思う。入会した頃は、人前で話すのが苦手で、入会申込者面接での三分間スピーチでも「話せないなら、立っておけ」と言われた。かつて、清水浩洋さんが広島ブロック協議会の会長をされたとき、副幹事として、一緒に出向させてもらったことがある。その清水さんから「やはりスピーチは、事前に原稿を作ってしっかりと準備して臨んだ場合と、ぶっつけ本番でやった場合とでは、全然出来が違う」と言われたことがあった。入会3年目で、まだ人前で話す機会がほとんどなかった当時の自分は、「そういうものなのかな」と思う程度だったが、その後、JCで色々な役をさせていただくにつれて、スピーチの機会も増え、あのときの清水さんの言葉を実感するようになった。卒業してからは、人前での挨拶が多少はマシになっていることに気が付いた。やはり、逃げずに話さないといけない場面が多かったからだろう。もちろん、場慣れもあったと思う。

 

 JCで得た自分にとっての一番の財産は、何といっても、人と人とのネットワークが広がったことだろう。それによって、人間として豊かになれたと思う。

 

 こういったインタビューをするのであれば、大之木精二さんは絶対に欠かせないと思う。