JCで一皮むけた経験

樽村建治 先輩  ~柔軟な視点を持つことで、幸せになれるコツを掴む~

 入会2年目の1989年、イベント推進委員会に委員として配属された。26歳になる年だった。そこで、呉みなと祭や、海と島の博覧会などのイベントに携わった。その頃、趣味を通して自分だけが楽しむということに飽きかけていた。そんな中、社会開発系の事業に携わることで、多くの人に楽しんでもらうことの楽しさに気が付いた。90年には幹事を、91年には副委員長をさせてもらった。いずれも社会開発系の委員会で、その面白さを存分に満喫できた。

 

 93年には、経営者開発委員会の委員長をさせてもらった。事業としては、全部で4回の勉強会を行い、その内、2回は泊りがけだった。勉強会は、財務会計知識の習得を目的とした比較的堅い内容で、「そんなことをやっても、メンバーは集まらない」という声もあった。そのため、勉強会の内容をゲーム仕立てにするなどの工夫を凝らした。その甲斐あって、当初の懸念は杞憂に終わり、勉強会は大いに盛り上がった。

 

 社会開発系の事業に携わっているとき、「人は楽しくないと動かない。使命感だけでは、限界があり、辛い」と思った。この年、それが指導力開発系のセミナーにも当てはまると実感した。今、振り返ってみると、社会開発畑での経験が、違う分野でも活きたように思う。

 

 95年、副理事長をさせてもらった。当時の自分には、「JCとはこういうものだ。こういうときはこうしないといけない」といった、ある種の持論があった。それは、入会してからの七年間の経験を通して、培われたものであったが、その多くは、思い込みや決めつけだった。それが、この年、大きく覆されたのだ。

 

 理事長の三宅清嗣さんは、「大きな目ですべてを見据えて」をスローガンに掲げていた。大きな目で見据えず、また全てを見据えていなかった自分に対し、三宅さんは「確かにそういう見方もあるけど、こういう考え方もあるよ」とよく言われた。しかし、はじめの頃は、つっぱってばかりで、結局、我を通して、好きなようにやらせてもらっていた。今思うと、子どもだったと思う。

 

 その頃の自分は、計画を過度に重んじるところがあった。自分のイメージと違うことが起きるのが不安だったのかもしれない。ところが、この年は、自分のイメージと違うことの連続で、そのことに戸惑いながらも、直視するしかなかった。また、根っからの現場主義者だった自分は、担当ライン以外の委員会にも顔を出し、そこで、自分とは違う見方や考え方に数多く触れた。

 

 これらによって、自分の偏狭な思い込みが、次第に氷解し始めた。そうなると、考え方が柔軟になっていき、「泣かぬなら、それもまた良しホトトギス」という心境になった。結局のところ、「こうしなくてはいけない」という自分の考えが、皆の自由な発想や創造性を束縛していたことに気が付いたのだ。また、考え方が柔軟になると、ハプニングが楽しめるようになった。辛いときや逆境に置かれたときでも、それを楽しむ余裕が持てるようになった。視点を変えることで、幸せになれるコツを掴んだような気がした。

 

 この副理事長という役を終えた頃から、卒業してからのことを考えるようになった。JCでは、それまで色々なことをさせてもらった。しかし、「色々」ではなく、「一つのこと」を長くやってみたいと思うようになった。趣味を通して自分一人が楽しんでいた頃を第一段階、多くの人に楽しんでもらう面白さを覚えた頃を第二段階とすると、JCの枠を超えたところで、一つのことを長く続けてみたくなったこの時期は、第三段階と言える。

 

 あの頃、「JCを卒業して、普通の生活に戻る」と言う人もいたが、自分はそうは思っていなかった。現役時代に、大量の経験をさせてもらうことで、通常では得難い人脈が築け、様々なテクニックを覚えることができる。だからこそ、卒業してからは、それらを使って社会に役立てるような行動をしていかなくてはいけないと思っていたのだ。

 

 そんな中、高知のよさこい祭を目にし、「これだ」と思った。そして、97年、呉でよっしゃこい祭を立ち上げた。当時、35歳だった。みんなでつくり、みんなで参加するような祭りをつくりたかった。「祭りの踊りを通して、自分たちのまちは、自分たちで盛り上げる」。そんな思いを持った人を一人でも多く増やしたいと考えていた。これはJCで取り組んでいた「ひとづくり」と、本質的には何も変わらないと思う。

 

 そんな自分も、このよっしゃこい祭を10年も続けていると、次第に続けることが辛くなってきた。いつのまにか、続ける原動力が、使命感だけになりかけていたのだ。そんなとき、JCで初めて委員長をさせてもらったときに実感したことを思い出した。「人は楽しくないと動かない。使命感だけでは、限界があり、辛い」。そこで「今、自分は楽しんでいるだろうか」と自問した。すると、長く続けているうちに、新しい試みをしなくなっていたことに気付いた。そこで、2007年は、公式ガイドブックの作成をはじめ、新たな課題をいくつも設け、より盛り上げる仕掛けをつくっていった。パンフレットの表紙には、自分へ向けた言葉として、「呉楽」と書いた。その結果、使命感ではなく、楽しさが再び自分を突き動かすようになっていった。

 

 このよっしゃこい祭は、単年度制のJCでは、できない祭りである。しかし、今でも、JC時代の仲間や、現役メンバーの有志の方が手伝ってくれている。その意味で、JCがないとできない祭りだ。また、JCに入っていなかったら、そもそも誕生すらしていなかった祭りでもある。これからも、社会から求められる限り、この祭りは続けていきたいと思っている。