JCで一皮むけた経験

胡井曠荘 先輩 ~難題に直面しても動じることなく切り抜ける術を学ぶ~

 1966年、23歳のときにJCに入会した。当時の呉JCのメンバーは、呉を代表する企業の方ばかりであり、入会時の面接は物々しく、今でも緊張したことを覚えている。当時としては、数少ない若くしての入会だったようで、しばらく最年少の年が続いた。

 

 69年、三宅清兵衛さんと大之木晴樹さんと一緒に台湾の高雄へ行ったことは、大きな思い出の一つとして心に残っている。三宅さんは66年に高雄JCと姉妹縁組を結んだときの理事長で、大之木さんはこの年(六九年)の理事長だった。自分は少し中国語ができたため、それを理由に同行させていただくことになった。まず当時の政府直轄地だった高雄市の市長に、奥原市長(当時)の親書を携えて行かねばならなかったが、渡す相手の高雄市長が変わっていることが分かった。高雄に着いて、そのことを知ったものの、巻物の毛筆書きの親書には、宛名としてはっきりと旧市長の名前が書かれていた。

 

 この事態を受け、三宅さんと大之木さんは、毛筆と紙を求め、夜の高雄市内を尋ね歩いたのだが、紙は見つからなかった。そこで、宛名が書かれた残りの部分を切り取り、新市長の名前を書き、それを貼りつけ、そして筆跡は、親書の本文と似せて、見事に作り上げたのだ。この難題に直面しながらも何ら動じることなく、機転と技を持って事に当たられた大之木さん、そしてそれを平然と見守る三宅さんの貫禄にも実に驚き、この一件は未だ忘れることができない。予想外の出来事の中にあっても、難を乗る切る先輩の能力の高さに感じ入り、「これが青年会議所のメンバーか」と強く思ったのである。

 

 入会して間もない頃、呉市民を対象にしたアンケート調査を実施したことがあった。夜、皆で集まり、その分析をするのだが、自分たちだけでは数字を見てもそれを言葉に表現できないため、統計の専門家で広島県庁に勤めておられた、ある課長にアドバイザーになっていただいた。最終的にこの分析結果をまとめて呉市に提言書として渡したところ、呉市はそれぞれの地域が必要としているガードレール、歩道、照明、公園などの整備の充実に行動を移すようになった。今は、呉市はシンクタンクに依頼するようになっていると思うが、当時は、JCと行政は「ハネームーン」の時代であり、JCにはこういった役割も期待されていた。今華やかになっている呉みなと祭も呉市企画課の人達との連携により花開いたといっても過言ではない。

 

 84年、呉JC主管で中国地区大会が行われた。自分は、その前年に地区大会準備委員会の委員長を、当年は地区大会特別委員会の委員長をしていたこともあって、中国地区内のメンバー約5000人の内、2000人を集めようという位の勢いで臨んでいた。そのため、京都会議をはじめ地区内の各LOMの例会や、ブロック大会、地区大会などを訪問し、PRして回った。この間、各地の多くのメンバーと触れ合うことができ、当日は、本当にたくさんのメンバーに集まっていただけた。「野を越え、山を越え、志を同じくするもの相集ってもらった」この嬉しさは、まさにJCの友情を実感する瞬間だったと覚えている。

 

 大真面目に教育問題に関する運動に参加し、北方領土問題など天下国家について熱く論じたひと時こそが、呉JC時代の自分の青春であった。自分は、JCの仲間には共通の言語があるように思える。この年になっても未だに会社の肩書きではなく、「先輩」と呼ぶことができ、その先輩から言われることには、腹も立つことなく、スッと理解し、へりくだらず話すことができる。このJCでの体験は貴重であり、財産だと思っている。

 

 自分には兄弟がいなかったので、尊敬できる諸先輩方の存在は、とりわけ大きいものがあった。お酒の飲み方から遊び方まで勉強させてもらい、感謝に堪えない。ビジネスに限らず、社会生活の全般において、「小さな約束を守ること」や「日常の何気ない振る舞いの中で先輩、後輩への気づかいや心づかいを示すこと」は、とりわけ大事なことではなかろうか。それらを、JC活動を通じて自分は教わった。ある種言葉では言い表せない不文律のようなもので、単なる知識の類ではなく、人間にとっての本質的な部分を学ぶことができたと、今もなお実感している。

 

次のインタビューは、実直で真面目な榎博司君に繋ぐことにする。