JCで一皮むけた経験

賀谷隆太郎 先輩  ~表に出た情報だけでは真実に迫れない~

 JCには、1984年に入会した。当時、31歳だった。以来、副委員長、委員長、室長、副理事長、理事長といくつもの役を経験させてもらったが、一つのイベントで一皮むけたという実感はない。むしろ、複数のイベントを経験していく過程で、一皮むける下地ができ、その結果、最後に理事長をさせてもらったときに一皮むけることができた。そう考える方がしっくりくる。

 

 入会8年目の92年、理事長をさせてもらった。最も印象深いのは、ボリショイサーカスをめぐる一件だ。当時、「なぜJCがサーカスをやらないといけないんだ」という意見もあった。「サーカス」という部分だけが過度に取り上げられた感があった。あの頃は、なぜJCがやるのかについて、強固な理論武装が求められていた。自分としては、その年の後半の事業とのバランスを考えたとき、「子どもたちが喜ぶからやろう」といった単純な動機に基づく事業があってもいいのではないかと考えていた。また、ロシアサーカスの公演は、東西冷戦が終結したことを、一般市民の方に皮膚感覚で実感してもらうきっかけになるとも考えていた。ところが、「ロシア国籍のサーカスを招致するなんて、賀谷は共産主義者ではないか」と疑われたこともあった。

 

 すったもんだの議論の末、このボリショイサーカスの議案は、何とか審議可決した。開催日は4月26日で、場所は呉市文化ホールに決まった。その後のチケットの売れ行きも順調で、昼・夜の部とも二階席まで全て完売となった。ところが、4月10日になって、突然、文化ホールの担当者から、「動物を持ち込んだサーカスはダメです」と言われた。このままでは、開催できなくなってしまうと思い、四方八方、手を尽くしたが、事態は一向に好転しなかった。

 

 4月16日、尾道で日本JCの会頭訪問があった。帰りの新幹線の中で、大阪公演を視察してきたメンバーから「動物抜きのサーカスはあり得ません」との報告を受けた。動物抜きでサーカスを行う一縷の可能性も潰えた。まさに万事休すの状態だった。その日、開催中止になった際にどういった行動をとるべきかを検討するグループも立ち上げた。4月18日に行った花見での挨拶は、事実上のギブアップ宣言に近かった。それが、最終的には、4月21日に行われた「ダニエル・カール」講演会で、「何とか開催できることになりました」と挨拶することができた。公演日の実に五日前のことである。最後は、呉JCの表裏の人脈の総動員によって、土俵際でのうっちゃりが決まった。そう表現するしかない。

 

 この約十日間の出来事は、今、振り返ってみてもドラマである。自分からは何もお願いしていないのに、これまで共にJC活動をして来た仲間や何人もの諸先輩方が心配して、「何か手伝えることはないか」と声をかけに来てくれた。ヤマトイベントで共に汗を流した呉市の職員の方々も「何か力になるよ」と言ってくれた。またJCメンバーの中にも、「何もできないけど、俺、運転手くらいならできるから、とにかくもう一度、一緒に市に行ってみようよ」と言ってくれた仲間もいた。

 

 これらを通して、呉JCが蓄積してきた人脈の厚さと、内外のネットワークの力をまざまざと感じた。本当の友情にも触れることができた。これらは、言葉ではよく言うし、聞いてもいたが、真の意味でそれを実感できたのは、このときが初めてだった。この年、「ハイネットワーク委員会」という委員会を設けたが、既に「ハイネットワーク」は、構築されていたのかもしれない。今だから言えることだが、このような経験ができて本当に良かったと思う。

 

 このボリショイサーカスは、JCの事業としては、ほんの小さな花に過ぎなかった。しかし、たとえ地上に出ている花は小さくても、地中の根は深く広く張っていた。どんなに大きな花を咲かせても、簡単に引っこ抜けるようなものでは、JCの事業としては、意味がない。見た目の華やかさよりも、地中の根の深さと広がりの方がはるかに大事だ。この一件を通して、そう思った。

 

 この一連の出来事は、事情を知らない人が聞けば、単に実施が危ぶまれたサーカスが何とか開催できたというだけの話だろう。しかし、それは表に出ている部分にしか過ぎない。真実は、舞台裏で起こっていた。表の情報だけでは、真実に迫れない。舞台裏を見続けて、それを強く実感させられた。この一件以来、マスコミの情報や人から聞いた話を鵜呑みにせず、自分の足で生の情報を集めて、真実に迫ろうとする姿勢が身に付いた。

 

 思えば、自分のJC生活は、人との出会いに恵まれていた。ただ、その人たちに、その後きちんと礼を尽くすことができたかというと、むしろできなかったという意識の方が強い。そのことがずっと心に残っている。

 

 次のインタビューは、40周年の記念誌を作成するのに、毎晩遅くまで悪戦苦闘しながら頑張ってくれた神垣和典君に繋ごう。