JCで一皮むけた経験

匿名希望  ~何事も経験してみないと分からない~

 JCに入会する前は、自分はアンチJCだった。JCメンバーは、ろくに仕事もせず、親のスネをかじりながら、遊んでばかりいると思っていた。とにかくJCに対する批判を繰り返し、絶対に入るものかと思っていた。そんな自分に対して、同級生の梶岡幹生さんが、勧誘に来られた。1979年のことだった。当時の梶岡さんは専務理事をされていた。自分は「JCなんて馬鹿騒ぎしているだけじゃないか」とはっきり言った。それに対し、梶岡さんは「JCの何たるかも知らないくせに、何を言うんだ。そんなにJCの文句を言うなら、入ってから言ってみたらどうか」と応えた。「それも一理あるな」と思い、結果的に入会した。堂々とJCの文句を言ってやろうと思い、全出席を誓った。

 

 入会した年、中国、四国、九州の三地区合同による仮入会員セミナーがあり、大宰府天満宮に行った。案の定、ふざけた人間も多かったが、行ってみると意外と面白かった。在籍している間、京都会議や全国会員大会にも全て出た。卒業するまで、常に役を受け続け、「スリープ」という言葉は、自分には無縁の言葉だった。

 

 85年の全国会員大会は、広島JCが主管することになっていた。呉JCは、副主管LOMだった。一大事業なだけに、広島JCと一緒に、前年から準備をすることになった。副主管LOMという立場で、主管LOMの広島JCと協働していくには、広島JCに対して、ズケズケと物が言える人間が、パイプ役になる必要があった。その頃の自分は、理屈が通らないことにはうるさく、LOMでは随分と煙たがられていた。それで「●●●●●●なら大丈夫だろう」と声がかかったのかもしれない。

 

 それからの二年間は、広島に随分と出向いた。広島に行くようになってから二年目の85年には、LOMで全国大会対策委員会の委員長という役をさせてもらった。当時、呉JCと広島JCとの関係は、必ずしも蜜月状態とは言い難く、はじめの頃は、広島JCのメンバーから、嫌味を言われることも少なくなかった。しかし、両LOMには、全国大会という一大事業を成功させる責任があった。そのため「小異を捨てて大同につくべきである。とにかく、全国大会の成功を目指そう」と訴えた。彼らも納得してくれた。この二年間、広島JCのメンバーとは、本当に深い付き合いができた。広島JCの理事長とも、PRのためによく一緒に東京へ行き、自ずと関係は深まった。生涯、付き合える友も得た。もちろん、事業の達成感も大きかった。

 

 あれだけ、入会前、JCの悪口を言っていた人間が、JCも捨てたものではないと思うようになっていた。今、振り返ってみると、広島JCのメンバーとは、無茶な遊びも随分としたが、若いときに遊びを経験しておく意義も、それなりにあると思う。入会前にJCの文句ばかり言っていたのは、単に羨ましかっただけなのかもしれない。JCに入ってからは、呉でも広島でも、とにかく人を知った。これが一番の財産だろう。入会する前、「そんなにJCの文句を言うなら、入ってから言ってみたらどうか」と言った梶岡さんのあの言葉に、うまく乗せられたのかもしれない。何事も経験してみないと分からないものである。
 

 

 次のインタビューは、83年に副理事長をさせてもらったときに同じラインの室長だった明神博君に繋ごう。