JCで一皮むけた経験

楠孝三郎 先輩  ~その道に長けた人の意見を参考にしながら、物事の判断をする~

 1986年、堀口勝哉さんが広島ブロック協議会の会長をされた。翌八七年には、中国地区協議会の会長をされた。このとき、自分は幹事として一緒に出向させてもらった。32歳から33歳にかけてのことだ。

 

 堀口さんは、決して人前でのしゃべりは上手な方ではなかった。しかし、内容がすばらしかった。そして、いつも話の中に少しだけ、皮肉を入れられていた。そこに嫌味がなかったので、毎回うけがよかった。
 

 

 86年、岡山で中国地区大会があった。どの人も当たり障りのない挨拶ばかりで、みんな辟易していた。そこへ、次年度地区会長予定者である堀口さんの挨拶の番が回ってきた。その年の地区大会のキャッチフレーズは、「燃える岡山」だった。それを踏まえて、堀口さんは「燃えているのは山ばかり」と挨拶を切り出した。この当時、岡山で山火事が続いていたのをひっかけて、皮肉を言われたのだ。会場がどっと沸き、自分も鳥肌がたった。各LOMを回るときも、毎回、この手の皮肉を言われ、それがどこでもうけた。そういう瞬間は、幹事としてとても嬉しかった。
堀口さんは、スピーチをされる前にいつも原稿を書かれていた。それを何度も赤ペンで修正し、「どうか」と人に見てもらっていた。あのスピーチの裏側で、毎回これほどまでの準備をされているのかと感銘を受けたのを覚えている。自分もPTAなどで、人前で話すときは、堀口さんのスタイルを踏襲するようになった。

 

 堀口さんは、「分からん者と知らん者が議論をしても、いい結果は出ない」とよく言われていた。分からないことがあれば、まずその分野に長けた人に聞いてみることから始めるべきだという意味が込められていた。堀口さんの交友関係は、学者、役人、経済人、文化人、そしてゴルフの上手な人に至るまで、実に広範囲に亘っており、そういった人たちとの関係を大事にされていた。ブロックや地区の委員会でも、ご自身のネットワークの中から、専門家の方をアドバイザーとして起用されていた。

 

 「自分があらゆる分野でエキスパートになれるわけではなく、またその必要もない。その道に長けた人の意見を参考にしながら、物事を判断していけばよい」。堀口さんから、そういったことを学んだ。以降、問題の解決の仕方が変わったように思う。自分で考えてみて分からないことは、まずよく知っている人に聞くようになった。

 

 九二年、会員開発室担当の副理事長をさせてもらった。自分のラインには、三つの委員会があった。委員長は、若本祐昭君、大木直也君、小島朗秀君と個性派揃いだった。この年は、本当によく飲んだ。週に4~5日、深夜の2時、三時まで飲むこともあった。毎回、飲みながら、白熱した議論を行っていた。もちろん、仕事もきっちりやっていたので、とにかくタフな一年だった。疲労のせいか、夜中によく足がつり、その話をすると、若本君も「自分もそうだ」と言っていた。

 

 この当時の例会は、月に2回ほどあった。大木君の委員会は、年間出席率が100%で、他の二委員会も、ほぼそれに近かった。それだけ、自分の担当ラインの委員会は盛り上がっていたのだ。その盛り上がりに水をささないようにしながら、理事長の考えを伝えるのは決して容易でなかった。トップの考えと現場の意気込みをどのように融合させていけばよいか、常に考えさせられた一年だった。

 

 自分は、かつて大学時代まで剣道をやっており、いつか地元の子どもたちに剣道を教えたいと思っていた。そこで、JCを卒業すると同時に広小学校で剣道を教え始めた。この教室は、十年続けた。JCで時間の作り方を学んでいたから、このようなことができたのだと思う。

 

 次のインタビューは、92年に一緒に副理事長をした神田政明さんに繋ごう。